America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~:黒人の歴史
Martin Luther King Jr. Memorial
Nicodemus National Historic Site
Brown vs. Board of Education National Historic Site
African Burial Ground National Monument
Carter G. Woodson Home National Historic Site
Tuskegee Airmen National Historic Site
Little Rock Central High School National Historic Site
George Washington Carver National Monument
Maggie L. Walker National Historic Site
Frederick Douglass National Historic Site
1963年8月28日、The March on Washington for Jobs and Freedom(ワシントン行進)において、リンカーン記念碑から世界に向けて人種差別撤廃に向けてのメッセージが発せられた。"I have a dream"で始まるその演説は、時空を超えて、世界中の人々の心を捕らえ、魂を揺さぶった。それから48年後の2011年8月28日に、その発信者を讃える記念碑がワシントンDCに建立された。Martin Luther King Jr. Memorial(マーチン・ルーサー・キングJr.記念碑)は、人種差別撤廃と恵まれない人々の地位向上にその39年の生涯を捧げたキング牧師を讃える記念碑である。(キング牧師の生涯については、Martin Luther King Jr. National Historic Site(マーチン・ルーサー・キングJr. 国立史跡) を参照。)
キング牧師に捧げる祈念碑建立のアイデアは、キング牧師がボストン大学の学生時代に参加した黒人初の学際学友会であるAlpha Phi Alpha(アルファ・ファイ・アルファ)の有志から生まれた。祈念碑建立のアイデアは、1983年にキング牧師生誕日の祝日化(1月第3月曜日)法案が成立してから具体化に向けた動きが活発化し、1996年に連邦議会はアルファ・ファイ・アルファに対してワシントンDCにキング牧師祈念碑を建設する権限を与えた。1998年には資金集めのための財団 (Washington, D.C. Martin Luther King, Jr. National Memorial Project Foundation)が設立され、1999年には桜で有名なTidal Basinの北西に設置場所が決定され、2000年にはデザイン・コンペによりサンフランシスコの建築会社のデザインが選定された。残る課題は1億ドルにも上る資金集めであった。P&G, コカコーラ, GE, トヨタ, ソニーなどからの寄付や連邦政府からの1千万ドルの提供などにより資金に目処が立ち、建設が始まったのは2009年12月のことであった。彫刻家は、中国人のLei Yexinが選ばれた。
キング牧師祈念碑の位置には、重要な思いが込められている。祈念碑は、奴隷解放を実現したリンカーンの祈念碑と人類の平等を謳った独立宣言の起草者であるジェファーソンの祈念碑とを結ぶ線上に位置する。これは、キング牧師の運動は、リンカーンの奴隷解放によって開始された人種差別撤廃に向けた一歩を推し進め、ジェファーソンの掲げる理想に向けた一里塚を形成するとの意味を持つという。また、その住所には、"1964 Independence Ave., SW, Washington, DC"が割り当てられており、番地の1964は、キング牧師が生前その成立に努力した、公共の場所での人種等による差別の禁止等を内容とする1964年公民権法に由来するという。
キング牧師祈念碑は、大きく2つのパートに分かれている。第1のパートは、キング牧師自身の像である。巨岩からキング牧師が押し出された形をとっている。これは、キング牧師の"I have a dream"のスピーチからの1節である"With this faith, we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope(この信念をもって、我々は絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう)"から来ている。巨岩が「絶望の山」で、キング牧師像が「希望の石」を体現している。キング牧師祈念碑の入口から入ると巨岩から一片の石が前方に押し出されている様子だけが伺える。進んで行き切り出された石の前に回って見て初めてキング牧師の姿を見ることができる。これは、まさにキング牧師がそのリーダーシップにより「絶望」から「希望」を生み出し、ジェファーソンの理想に向けて社会を一歩前進させたことを象徴しているものと思われる。また、キング牧師は、あえて正義の怒りに満ちた表情で彫られている。
第2のパートは、Inscription Wall(碑文の壁)と呼ばれるキング牧師のスピーチや文章から引用した言葉が刻まれている壁である。壁は、「絶望の山」の左右に展開されており、1955年のアラバマ州モンゴメリーのバスボイコット時の演説の一節から1968年暗殺4日前のワシントン大聖堂での演説の一節まで14の言葉が刻まれている。この中に"I have a dream"の一節は含まれていない。これは、祈念碑の第1のパート自体が"I have a dream"の演説を体現していることと、キング牧師の思想・信条を表した言葉は他にもあり、それらにも焦点を当てたいとの意図を反映したことに由来する。
「この信念をもって、我々は絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう」というキング牧師の言葉は、世界中の全ての人々への希望のメッセージとして今日も輝きつづけている。
(国立公園局のHP)
南北戦争が終了し、自由の身分となった南部の黒人は、シカゴ、ニューヨークなど北部の工業地帯に渡り労働者になった者もいれば、南部にとどまり小作人として従来と変わらない生活を強いられた者もいた。また、中には新天地を求めて開拓者となり、黒人の町を建てた人々もいた。カンサス州のNicodemus(ニコディーマス)は、ミシシッピー川以西に残る黒人開拓者最古の町である。厳しい気候と貧しい土地にも挫けず、西部に根付いた黒人だけの町は、今も小さなコミュニティーとして息づいている。
1876年の大統領選挙では、民主党候補のSamuel Tilden(サミュエル・ティルデン)が得票数では共和党候補のRutherford Hayes(ラザフォード・ヘイズ)を上回り、選挙人の獲得数ではティルデンが19人差でヘイズを上回り、20人の選挙人の行方が最後に紛争となった。選挙管理委員会は、最後の20人はヘイズと裁定したため、南部諸州の民主党は激怒し、再び連邦離脱を示唆するようになった。国の統一を優先するため、ヘイズは南部の民主党が要求するReconstruction(レコンストラクション:復興)の終了を飲み、1877年に連邦軍を南部諸州から引き揚げることとなった。連邦軍が撤退すれば、南部保守派の復権や黒人に対する圧制の復活は時間の問題で、南部の黒人は、南部に残ってリンチや差別の横行する社会に生きていくか、新たな新天地を求めて生まれ故郷を去るかという選択を迫られた。
宣教師であった黒人のW.H. Smith(W.H.スミス)と白人の不動産開発業者W.R. Hill(W.R.ヒル)は、1877年にNicodemus Town Company(ニコディーマス・タウン会社)を設立し、南部から黒人を募り、黒人の町をカンサスに設立する計画を建て、ケンタッキー州などで、土地が肥沃で秋には収穫の溢れる「西部のエデン」、「約束の土地」への移住を盛んに説いた。ニコディーマスは、黒人奴隷としてアメリカに連れて来られながら後に自由を買い取った人物の名前であり、カンサスへの移住は、さながらイスラエルの民のエジプトからの脱出に例えられ、ニコディーマスの宣伝を手伝ったBenjamin Singleton(ベンジャミン・シングルトン)は黒人のモーゼと呼ばれ、カンサスに移住した人々はExodusters(脱出者)と呼ばれた。
1877年9月、308名の最初の移住者を乗せた列車はカンサスに到着し、そこから55マイル(88km)離れたニコディーマスまで徒歩で移動した。期待に胸を膨らませ到着したニコディーマスで彼らを待っていたのは、作物など何も育ちそうにない強風が吹きすさぶ荒涼とした大地であった。この頃までには条件の良い西部の土地には既に白人が入植しており、残されていた土地はほとんど耕作には適さない荒れ地だけであった。この風景にショックを受けて60名は直ちに引き返した。緑豊かな肥沃な土地を想像して来た脱出者は、種子、耕作道具、資金などを持たないまま、冬に備えなければならなかった。強風が吹き� ��さぶ大地ではまともな家を建てることはできず、斜面に穴を掘って土と泥で粗末な住居をこしらえた。見かねたOsage(オサゲ族)は食料や薪などを援助した。
翌年春には第2陣の開拓団が到着し、夏には第3陣の開拓団が加わった。厳しい気候とやせ衰えた土地を相手に開拓民は土地を切り開き、教会、学校、公会堂などを建設し、コミュニティーを建設していった。1880年ごろには500名が住む、それなりの規模のコミュニティーとなり、雑貨屋、郵便局、薬局、ホテル、新聞社などを備えていた。
次第に大きくなるニコディーマスの土地に鉄道を通そうという機運が高まっていった。ニコディーマスは建設債の発行を決め、Union Pacific Railroad(ユニオン・パシフィック鉄道)と交渉を持ったが折り合いがあわず、鉄道はニコディーマスから離れたところを通ることになってしまった。19世紀末、鉄道の通らない町からは次第に賑わいが遠ざかっていった。20世紀に入り、大恐慌、旱魃などの天災が次々とこの小さなコミュニティーを襲い、人口減少に拍車がかかり、1935年にはわずか76名の人口となってしまった。
今日ではわずか20名ほどが残るばかりとなってしまったが、年に1回7月の最後の週末は奴隷解放を記念して町には全米からニコディーマス出身者とその家族、子孫がニコディーマスを訪れる。このときばかりは、ニコディーマスは、かつての賑わいを取り戻す。1996年にニコディーマスは、町全体が国立史跡に指定され、貴重な最古の黒人開拓団の町の保存の取� ��みが行われている。
(国立公園局のHP)
アンドリュー・ジョンソン大統領の拒否権を覆して成立した1866年公民権法、さらにそれを格上げした1868年の憲法第14修正条項は、黒人への市民権の付与ととともに、権利の平等を確立するはずであった。南部の保守派層は、KKKを結成し、暴力に訴えるとともに、「平等」の解釈を歪めることによって、白人の絶対的優位の維持を企んだ。1868年にはアラバマで黒人、白人を隔離する学校制度が始められた。1875年の公民権法は公共施設への平等なアクセスを義務付けたが、南部ではその施行は無視された。逆に南部諸州では、黒人と白人を隔離しても、同等のサービスなどが受けられるのであれば憲法に違反しないとの解釈の下、この解釈を制度化する法律(Jim Crow Acts)が次々に可決された。この考えは法曹界も支配するようになり、1883年に最高裁は、1875年公民権法を違憲とした。1896年のPlessy v. Ferguson(プレッシー対ファーガソン)の判決で、最高裁は、ルイジアナ州の鉄道が黒人と白人の車両を分けていても憲法に違反しないとの判断が下され、人種隔離政策に合憲のお墨付きを与えるに至った。1908年のBerea College vs. Kentucky(ベレア大学対ケンタッキー州)で、最高裁は私学にも人種隔離政策を強制することも合憲であると判断を広げた。こうして南部を中心として社会の隅々に黒人と白人を隔てる壁が形成されていった。
このような壁を打破するため、1909年にW.E.B. Du Bois(W.E.B.デュボア)らによってNational Association for the Advancement of Colored People(全米有色人種地位向上協会:NAACP)が結成され、リンチの廃止などを求めたが、黒人と白人を隔てる壁は厚く高かった。NAACPは、社会変革の糸口を司法に求め、1939年にLegal Defense and Educational Fund(法律弁護教育基金)を設け、人種隔離政策を法廷で争う専門組織を立ち上げた。第2次世界大戦により活動は中断したが、1946年には、Morgan vs. Virginia(モーガン対ヴァージニア州)において州際バスで人種隔離することは憲法違反との最高裁判決を勝ち取った。1948年には軍隊での人種隔離が禁止された。NAACPの次なる狙いは学校教育であった。
1949年からNAACPは、原告となる黒人家庭を募り、公立学校での人種隔離政策を法廷に持ち込み始めた。その一つがBrown vs. Board of Education of Topeka(ブラウン対トピーカ市教育委員会)である。1950年、カンサス州トピーカ市の20人の黒人生徒が白人校への入学を求め、教育委員会に拒否された。この結果、子供たちは遠くの黒人校Monroe School(モンロー校)に通わなくてはならなくなった。これを受けて13名の父兄は、1951年2月、NAACPの支援を受けて、トピーカ市教育委員会を相手取り訴訟を提起した。原告であるOliver Brown(オリバー・ブラウン)牧師が原告リストの一番上に乗っていたため、この訴訟はブラウン対トピーカ市教育委員会として知られることとなる。地方裁は、人種隔離政策は黒人の師弟に悪影響を与えているとの事実認定を行いつつも、プレッシー対ファーガソンを引用し、公教育での人種隔離政策は合憲であるとの判断を下した。決定は直ちに上訴された。
同様の訴訟は、各地でも提起された。デラウェア州でBelton (Bulah) vs. Gebhart(ベルトン対ゲブハート)、ワシントンDCでBolling vs. Sharpe(ボーリング対シャープ)、サウスカロライナ州でBriggs vs. Elliott(ブリッグス対エリオット)、ヴァージニア州でDavis vs. Prince Edward County School Board(デービス対プリンス・エドワード郡教育委員会)が提起され、これら同種の訴訟は、最高裁審理の際に、一本にまとめられ、Brown vs. Board of Education(ブラウン対教育委員会)と呼ばれるようになった。これらの訴訟の原告たちは、近くの良い学校で子供に良い教育を受けさせたいと願う普通の人々であった。NAACPの首席弁護士であったThurgood Marshall(サーグッド・マーシャル)は、隔離自体が平等でないと強く訴えた。
1954年5月17日、最高裁の判決が下された。最高裁長官Earl Warren(アール・ウォレン)は、白人と黒人を隔離すること自体が違憲であるとの判決を下した。全会一致の判断であった。公教育における人種隔離政策については違憲であるとの判断が下されたが、南部諸州の保守派の抵抗は強く、これを実現するためには、さらなる道のりが待っていた。(この続きは、Little Rock Central High School National Historic Site(リトル・ロック・セントラル高校国立史跡)のところで。)
この訴訟の舞台となったカンサス州トピーカ市のモンロー校は、ビジターセンターが置かれ、公民権運動の歴史を展示する博物館が併設されている。この展示物を見ると自由と平等の国アメリカのもう一面が見えてくる。
(国立公園局のHP)
1991年夏、290 Broadway, NY, NY、マンハッタンのウォール街からそれほど離れていない大都市のど真ん中で、連邦政府ビルの建設工事予定現場から、次々と人間の骨が発見された。その数、420体余り。そこは17世紀から18世紀にかけて埋葬された黒人の集団墓地の一部であった。その後のマンハッタンの開発により失われていたと思われていた集団墓地が200年のときを経て再発見されたのであった。これらの骨や副葬品は、ワシントンDCのハワード大学の調査チームによって詳細な研究が行われた後、2003年に再埋葬された。集団墓地が発掘された場所は、2006年に390番目の国立公園ユニットとして追加され、現在では静かに連邦政府ビルの片隅に記念碑が立っている。
ニューヨークの黒人の歴史は、17世紀に遡る。1613年、自由人の黒人船員がマンハッタン島に原住民 との取引所を設立したのが最初の記録である。最初の黒人奴隷は、1625年にオランダの西インド会社によってマンハッタン島に連れて来られた。オランダ西インド会社は、当初植民地の建設に必要な土木作業などを行わせるために黒人労働者を輸入したが、やがて奴隷貿易自体に本格的に従事するようになった。オランダの支配下にあったマンハッタン島のニューアムステルダムでは、黒人奴隷は主に砦、製粉所、住居、道路などの建設、土地の開墾、整地などの土木作業や木材の伐採、製材などに従事させられた。1640年までにマンハッタン島の黒人奴隷の数は500名に上った。農業技術を持つ黒人奴隷は、1644年に自由身分を与えられてフロンティアの土地を付与された。これは原住民との紛争の絶えない危険地帯に黒人を派遣してオランダ� ��権益確保を狙ったものであった。
1664年にオランダ領ニューアムステルダムはイギリス領ニューヨークに衣替えをしたが、イギリスもオランダと同様に奴隷貿易に従事し、ニューヨークの港へのアクセスは奴隷貿易船に優先権が与えられた。ニューヨークに連れてこられた黒人奴隷は、大工、鍛冶、印刷、仕立て、洋裁、港湾荷役、製パン、船員、家事手伝いなど、植民地を下支えする様々な労働に就いた。1711年にはニューヨークに奴隷取引市場が創設され、奴隷取引市場は次第に追加されていった。18世紀には、ニューヨークの人口の約2割が黒人奴隷で占めるようになった。アメリカ大陸全体では、1,200万人の黒人がアフリカから奴隷として連れてこられたという。
こうして黒人奴隷が増えるにつれ、通常の教会の墓地から締 め出されていた黒人奴隷用の墓地が必要となった。1673年にSara Van Borsum(サラ・ヴァン・ボーサム)が当時の町のはずれにある敷地に黒人奴隷の埋葬を許容したため、ボーサム家の敷地は黒人奴隷の集団墓地に変化していった。最初小さな区画だけであったが、黒人奴隷の数の増加に伴い、集団墓地は1794年に閉鎖されるまでに5街区分の巨大な墓地に変わっていった。遺体は布で包まれ、棺に頭を西向けにして横向けに入れ、埋葬された。棺のデザインには母国アフリカの文化の影響が色濃く映し出されている。所によっては棺を3段、4段重ねで埋葬した。総数ではおよそ20,000体が埋葬されたものと推定されている。墓地の閉鎖後、ここは平らな土地にされ、住宅地として分譲されたという。ニューヨークで最終的に奴隷が廃止されたのは、1827年のことであった。
多くの遺骨はその後の開発で失われてしまったが、419の棺は埋葬が比較的深かったため、そのままの状態で保存され、再発見されたものと考えられている。2007年10月5日に記念碑が竣工し、失われた過去を現在に伝える一助を担っている。
(国立公園局のHP)
Carter G. Woodson(カーター・G・ウッドソン)は、黒人の歴史の父と呼ばれる歴史学者である。奴隷の子供として貧しい生い立ちながら、勉学に対する情熱を失わず、遅ればせながら37歳にしてハーバード大学より歴史学の博士号を取得し、メインストリームの歴史において無視あるいは偏見をもって見られてきたアフリカ系アメリカ人の歴史を研究し、これを歴史の中に正しく位置づけていくため、Association for the Study of African American Life and History(アフリカ系アメリカ人生活歴史研究協会)を組織した。ウッドソンが長らく住居とし、亡くなった後も協会の本部として使用された住まいがワシントンDCに残されている。
カーター・G・ウッドソンは、1875年12月19日に、ヴァージニア州でかつて奴隷であった父James(ジェームズ)と母Eliza(エリザ)との間に生れた。両親ともに読み書きができなかったため、大工として生計を立てていた父ジェームズは息子に勉学を奨励したという。ウッドソンは、17歳になるまでに独学で読み書き、計算などの基礎学力をつけ、さらなる高等教育を求めてウェスト・ヴァージニアに転居したが、貧しさのため炭鉱で働くことを余儀なくされ、念願のDouglass High School(ダグラス高校)に入学したときには既に21歳になっていた。しかし、ウッドソンは、高校を2年で終了させ、卒業後教師となり、1900年には母校ダグラス高校の校長に就任した。しかし、さらなる学問への情熱は衰えず、1903年にはケンタッキー州のBerea College(ベレア大学)で学士号を取得した。1903年から1907年までフィリピンで教鞭をとった後、1908年にはシカゴ大学から歴史修士号を、ついには1912年ハーバード大学から歴史博士号を取得した。
ウッドソンは、歴史を学ぶうちに、過去の黒人の歴史がメインストリームから無視され、あるいはかつての奴隷の人々が偏見を持って今日に伝えられていることを知り、奴隷や黒人の人々の記録を洗い直し、偏向した歴史の修正を行おうと決意した。ワシントンDCの高校で教鞭をとるかたわら、1915年ウッドソンは、友人の宣教師Jesse E. Moorland(ジェス・E・ムーアランド)らとともに、アフリカ系アメリカ人生活歴史研究協会を設立した。1916年から協会はJournal of Negro History(雑誌黒人の歴史)を発刊し、黒人の歴史に関する研究の発表の場を提供した。ウッドソンは、1919年からはハワード大学教授などを務めていたが、1922年以降は、協会の仕事や著作活動が忙しくなり、そちらに集中することとした。1926年には、奴隷解放を行ったリンカーン大統領と奴隷解放運動家フレデリック・ダグラスの誕生日のある2月にNegro History Week(黒人の歴史の週)を創設し、黒人の歴史に対する意識の向上を図った。黒人の歴史の週は、1976年以降、Black History Month(黒人の歴史月間)に発展している。ウッドソンの研究対象は、黒人の移民パターン、家族構成、教会の影響、教育の変遷など多岐にわたった。1933年に出版されたMis-Education of the Negro(黒人の間違った教育)では、教育現場において黒人は社会的に劣等的な地位を占めるように教育されているとの問題を指摘し、黒人に自分のために自らを教育するように説き、大きな反響を呼んだ。
ウッドソンは、ワシントンDCの家に1915年以来住み続け、ここがウッドソンの研究活動の本拠となった。1950年に突然亡くなってからは、この家はアフリカ系アメリカ人生活歴史研究協会本部として使用された。Carter G. Woodson Home National Historic Site(カーター・G・ウッドソン邸国立史跡)は、2006年に389番目の国立公園ユニットとして追加された新しいユニットである。このため、ウッドソン邸はまだ公開されていない。
(国立公園局のHP)
第2次世界大戦前夜、アメリカの軍隊での人種差別は根強く、黒人兵士は有能な兵士たりえないという偏見が広く共有されていた。陸軍、海軍とも少数の黒人のみの部隊しか配備しておらず、第1次世界大戦でその有用性が確認された航空機部隊からは黒人兵士は一切排除されていた。National Association for the Advancement of Colored People(全国有色人種地位向上協会)などの団体は、軍隊における人種差別を問題視し、公民権問題に強い関心を寄せるルーズベルト政権も軍隊に善処を迫っていた。このような背景の中、ヨーロッパでは、民用パイロットの育成という名目で有事に即応できるパイロットの育成が行われており、風雲急を告げるヨーロッパの政治情勢を踏まえれば、アメリカも有事に備えてパイロットの育成が必要であることは明らかであった。こうしてアメリカでも1939年に始まった連邦政府の民用パイロット要請プログラムの中で、黒人パイロットの養成も実験的に開始された。訓練校としてTuskegee Institute(タスキギー大学)などが選ばれた。
ヨーロッパの戦局は急を告げ、1940年からは軍が直轄で本格的な軍用パイロット養成に乗り出した。黒人パイロットについては、タスキギー大学がMoton Airfield(モートン飛行場)で初級者訓練を運営し、陸軍はすぐ横にTuskegee Army Air Field(タスキギー陸軍航空基地)を建設し、上級者訓練を実施することとした。1941年7月19日、Benjamin Davis Jr.(ベンジャミン・デービス・ジュニア)大尉と12名の士官候補生は、米軍黒人パイロット養成1期生として訓練を開始した。11月にはデービス大尉他4名のパイロットが上級者コースに進み、1942年3月7日、彼らは晴れて米軍史上初の黒人パイロットの資格を得た。その後、終戦までに、タスキギーでは992名の黒人パイロットが養成された。空軍では、黒人パイロットの養成を受けて、黒人部隊として、第99戦闘飛行隊、さらには第332戦闘飛行群、及び第477爆撃隊を設置した。第477爆撃隊は実戦配備されることはなかったが、第332戦闘飛行群はヨーロッパ戦線に配備された。第332戦闘飛行群は、その高い技量から爆撃隊よりRed-tail Angels(赤い尾の天使)のニックネームがつけられた。第332戦闘飛行群は、主に地中海での作戦行動に参加し、15,000回の出動で、敵機260機の撃墜、駆逐艦1隻の撃沈に貢献したと言われている。その活躍から、タスキギー出身の黒人パイロットは1機も撃墜されなかったとの神話も生まれた。
米国軍での人種隔離政策の終了は、1948年のトルーマン大統領の大統領命令9981号を待たなければならないが、その礎には第2次世界大戦でのタスキギー出身パイロットを含む黒人兵士たちの勇猛果敢な活躍があった。Tuskegee Airmen Historic Site(タスキギー・エアメン国立史跡)は、まだ新しい国立公園ユニットで、公園内の施設は仮設のビジターセンターとパイロットの初期トレーニングに使用されたモートン飛行場にとどまっており、今後の充実が計画されている。
(国立公園局のHP)
涙のトレイルは何ですかつい50年前まで、アメリカの南部諸州では白人の子供と黒人の子供が机を並べて勉強することが許されていなかった。町のあらゆる公共施設は、白人用、黒人用に分けられ、この秩序を乱すものには、隠然と圧力、脅迫、リンチが加えられた。白人と黒人が違う施設を使ったとしても、同等の施設が使用できるであれば、法の下の平等に反しないという理屈であった。1954年5月17日のBrown v. Board of Education of Topeka(ブラウン対トピーカ市教育委員会)における最高裁の判断は、公教育における隔離政策は憲法に違反するという画期的な判断であった。しかし、最高裁の判断が現実の教育の場で実現されるためには、いくつものハードルが待っていた。その舞台となったのが、アーカンソー州の州都リトルロックにあるCentral High School(セントラル高校)である。
リトルロック教育委員会は、最高裁の判決を受け容れることを表明し、白人校と黒人校との統合計画の作成にとりかかった。1955年5月24日、リトルロック教育委員会は、Blossom Plan(ブロッサム計画)という名の統合計画を発表し、まずは1957年9月に高校から統合を開始し、その後数年かけて初等、中等教育の統合を図るというものであった。この計画にはNCAAP(全米黒人地位向上協会)が遅すぎると批判し訴訟を提起したが、連邦裁判所はこの計画を是認した。一方では、リトルロックの統合反対派はCitizen's Council(市民会議)を結成し、セントラル高校の父兄はMother's League of Central High School(セントラル高校母親連盟)を結成し、統合妨害を図ろうとした。NCAAPと教育委員会は、全白人のセントラル高校入学者に9名の黒人生徒を選んだ。後にこの9名は、Little Rock Nine(リトル・ロックの9名)と呼ばれるようになる。
1857年9月2日、アーカンソー州知事Orval Faubus(オーバル・フォーバス)は、暴動発生の危険を理由に州兵に黒人の登校を阻止するよう命じた。9月3日、登校初日、州兵がセントラル高校の前に立ちはだかり、9名の入門を阻止した。このとき9名は集合して登校する予定であったが、1人Elizabeth Eckford(エリザベス・エックフォード)のみ集合場所を間違えたため、1人遅れて登校するはめになり、1人で群集に取り囲まれることとなった。アイゼンハウアー大統領
翌24日、アイゼンハウアー大統領は、9名の生徒の安全を守るため、陸軍第101空挺師団を派遣し、アーカンソー州兵を連邦軍に組み込む措置をとった。このため、9月25日、第101空挺師団の兵士にエスコートされ、9名の生徒は初めて高校に登校することに成功した。(このときの状況は、ここを参照。)
しかし、9名の若者の試練は、それからであった。周囲の白人生徒たちからは、黒人生徒につばをはきかける、人種差別的言葉をはきかけるなどの嫌がらせが日常茶飯事のように続いた。9名のうち1名の女性とはカフェテリアで取り囲まれて嫌がらせを受け、絶え られなくなり、チリを男子生徒の頭の上に投げつけたため、停学となり、その後、白人女子生徒に悪口を投げかけたため、退学処分となった。(彼女はニューヨークの高校に転校し、そこを卒業した。)このときには"One Down. Eight To Go."(1人去った。あと8人。)のカードが配られた。8人はどんな嫌がらせにも黙って耐え忍んだ。1958年5月には、9名のうち1名Ernest Green(アーネスト・グリーン)が初めての黒人卒業生となった。彼は後にカーター政権下で住宅都市省の次官補を務めている。
この間も父兄から教育委員会に対して統合計画の中止を求める圧力はかかり続け、1958年2月には教育委員会は統合計画を遅らせる請願を出したが、最高裁の聞き入れるところとはならなかった。これを受けてアーカンソー州知事は、住民投票までの間、リトルロックの高校を閉鎖する命令を出すに至った。9月に行われた住民投票では、統合反対が統合賛成を上回り、高校の閉鎖措置は続けられることとなり、11月には教育委員6名中5名が辞任する事態となった。新しく選びなおされた教育委員会では、統合反対派の委員が統合賛成派の教師を解雇しようとする動きに出た。このため、統合反対派と賛成派の 対立が先鋭化し、翌年5月統合賛成派が出した統合反対派のリコールの請願が可決され、6月最高裁が高校閉鎖措置は憲法違反であるとの判断を下し、1959年8月に高校は再開することとなった。残る8人のうち2人がセントラル高校に戻り、1人は通信教育を受け、残りの5人は別の高校に通った。リトルロックで全学年の統合が終了したのは、1972年のことであった。
(国立公園局のHP)
George Washington Carver(ジョージ・ワシントン・カーバー)と言っても知っている人は少ないかもしれないが、アメリカ人の間ではピーナツ博士として知られている。それもそのはず、彼は300以上のピーナツの利用法を考案した人物である。しかも、カーバーは奴隷として生まれたため、満足な教育も受けられない少年時代を送ったと聞けば、驚くことだろう。George Washington Carver National Monument(ジョージ・ワシントン・カーバー国立遺跡)は、人種差別、偏見にも負けず、努力を続けた農学者カーバーの生まれ故郷を保存する国立公園ユニットである。
ジョージ・ワシントン・カーバーは、1864年7月12日、ミズーリー州南部に奴隷であった母に生まれた。父親は知られていない。まだ幼児であったときに、母親、姉とともに誘拐され、アーカンソー州で売り飛ばされるという事件にも遭遇している。主人であったMoses Carver(モーゼス・カーバー)は探偵を雇い捜索したが、百日咳に苦しむジョージのみが発見された。ジョージは呼吸器系が弱く、農作業をすることができなかったため、よく付近の森を散策していた。このため、野生植物に非常に詳しくなり、植物博士と呼ばれるようになった。また、自然をモチーフにした絵を描くことが大好きな少年であった。モーゼスは、身寄りのないジョージを我が子と同様に育て、モーゼスの妻スーザンは読み書きを教えた。しかし、その町では黒人が学校に通うことを禁じられていたため、1875年に10マイル離れた別の町に下宿し、そこの学校に通った。その後カンサスで下宿して高校に通ったが、その当時は白人により黒人がリンチで殺されるという事件が発生しており、カンサスを転々としながら高校を卒業� ��、クリーニングの仕事を始めた。
カーバーは、さらなる高等教育の機会を探したが、黒人ゆえ拒否される経験を何度も味わい、ついにアイオワのSimpson College(シンプソン大学)に受け容れられ、芸術を専攻した。シンプソン大学の芸術の教師Etta Budd(エタ・バッド)は、カーバーに実業である農学の習得を勧め、父親が勤めるアイオワ州立農業大学に転校を勧めた。1891年にカーバーはアイオワ州立農業大学に転校した。カーバーの能力を認めたJoseph Budd(ジョセフ・バッド)は大学院に進むことを勧めた。1896年に農学修士を取得すると、カーバーは、Booker T. Washington(ブッカー・T・ワシントン)校長の招きを受け、創立5年のTaskegee Institute(タスキギー大学)で農学部長の職を引き受けることとなった。カーバーは、その後47年間、タスキギー大学で奉職することとなる。
カーバーは、輪作指導などを通じて長年の綿花の栽培でやせ細った南部の農地の改良指導に努めるとともに、多くの労働力を必要とした綿花ではなく、黒人農家が栽培できる作物として、ピーナツ、スイートポテト、ピーカン、大豆などを取り上げ、その利用法の研究を続けた。カーバーは、300のピーナツの利用法、108のスイートポテトの利用法を考案した。カーバーは、ニュースレターを発行し、綿花の代替作物、耕作技術、調理法などに関する情報を無料で提供しつづけた。また、1921年に中国産ピーナツとの競争にさらされ、窮地に陥った全米ピーナツ協会は、議会ヒアリングをカーバーに 依頼した。カーバーのスピーチは、懐疑的な議員を説得し、ピーナツ関税の引き上げに貢献した。この結果、カーバーはワシントン界隈でも有名になり、人種の掛け橋ができる人物として注目された。彼の作物に関する知識は膨大で、あのエジソンやフォードも教えを請ったと言われている。プライベートでは絵画を愛し、彼が描いた風景画は多く残されている。
カーバーの生地では、ビジターセンターの裏から延びる1マイル(1.6km)のカーバー・トレールを歩くと、カーバーが少年時代を過ごした森をくぐりぬけることができる。ここには、カーバーの生家跡、モーゼス・カーバーの家、少年カーバーの銅像などが残されている。
(国立公園局のHP)
ヴァージニア州の州都であるRichmond(リッチモンド)のダウンタウンにJackson Ward(ジャクソン区)と呼ばれる地区がある。ここは、19世紀終わりから20世紀始めにかけて、黒人の中小企業経営者が軒を連ね、繁栄した場所である。この街を舞台に奴隷の子供に生まれながら、銀行経営者となった黒人女性がいる。その女性の名前は、Maggie L. Walker(マギー・L・ウォーカー)。慈愛あふれる敬虔なクリスチャンであった。
マギーは、1867年7月15日に、リッチモンドで生まれた。母親はElizabeth Draper(エリザベス・ドレーパー)といい、南北戦争中に北軍のスパイであったElizabeth Van Lew(エリザベス・ヴァン・ルー)の家で働いた元奴隷である。父親は、Eccles Cuthbert(エクレス・クスバート)という白人の反奴隷運動家であったという。母親は、その後ヴァン・ルー家の執事であったWilliam Mitchell(ウィリアム・ミッチェル)と結婚した。しかし、マギーが9歳のとき、義父が不慮の死を遂げたため、母親は洗濯婦となり、家計を支えた。マギーは、地元の公立学校に通う傍ら、母親を手伝い、洗濯物の回収・配達をして過ごした。11歳のとき、First African American Baptist Church(第1黒人バプティスト教会)で洗礼を受け、教会活動を通じて、黒人同士の相互扶助に目覚めていく。14歳のときにIndependent Order of St. Luke(聖ルカ相互扶助会)に入会し、黒人の病人、老人などへの奉仕を始めた。16歳でRichmond Colored Normal School(リッチモンド黒人普通校)を卒業し、3年間地元の小学校で教職に就いた。夜間には簿記を勉強した。
1886年にレンガ職人のArmstead Walker Jr.(アームステッド・ウォーカー・ジュニア)と結婚し、当時のルールでは既婚者は教職を続けられなかったことから、教職を退いた。結婚後は、家庭と相互扶助会活動に精力を傾けた。コミュニティー活動を通じて、黒人と白人との間の経済格差の解消、公平な雇用の確保、平等な人権の実現などを目指した。聖ルカ相互扶助会では、青年部の設立に尽力し、1899年には、聖ルカ相互扶助会の書記長に就任し、財政再建に取り組んだ。彼女のコミュニティー活動はさらに幅を広げ、1902年にはSt. Luke Herald(聖ルカ・ヘラルド)を発刊し、翌年には黒人のための銀行であるSt. Luke Penny Savings Bank(聖ルカ1セント貯蓄銀行)を設立した。この銀行は、黒人実業家への貸し渋りを解消するために設立された銀行であり、黒人女性によって設立された最初の銀行であった。マギーは、銀行の初代頭取を務めた。現在もこの銀行は、Consolidated Bank and Trust Companyと名前を変え、運営されている。黒人女性の地位向上にも熱心で、National Association of Colored Women(全米黒人女性協会)やNational Association for the Advancement of Colored People(全米黒人地位向上協会)のメンバーとしても活躍した。
1904年に、マギーは、現在Maggie L. Walker National Historic Site(マギー・L・ウォーカー国立史跡)が置かれている住居を購入した。この住居は、当初は9部屋だけであったが、息子夫婦が同居するなど家族が増えて、最終的には28部屋を数えるまでに拡張された。1915年には夫のアームステッドが泥棒と間違えられ射殺され、1928年にはマギーも糖尿病が進み下半身不随となり、車椅子の生活を余儀なくされるという悲劇も起きている。しかし、マギーの情熱は衰えることはなく、その生涯を黒人の地位向上のために捧げ、その最後まで聖ルカ相互扶助会の書記長と自らが創立した銀行の会長を務めた。
(国立公園局のHP)
奴隷の身分に生まれ、父親が誰かわからず、母親と一緒に暮らせず、奴隷として過酷な生活を経験し、黒人に読み書きを教えることが禁じられた時代に独学で読み書きを覚え、ついには逃亡して自由の身分となり、奴隷解放運動に身を尽くし、黒人の地位向上にその生涯を捧げた人物がいる。その人物の名は、Frederick Douglass(フレデリック・ダグラス)。南北戦争前後の頃、最も有名な黒人と呼ばれた人物である。貧しく、厳しい生い立ちにも挫けることなく、運命に立ち向かっていったその一生は、どんなドラマよりも劇的である。彼が最後に暮らした邸宅がワシントンDCのはずれにある。
フレデリック・ダグラスは、まだ奴隷が合法であった時代の1818年に、メリーランドで奴隷の母親に生れた。生れた月日は不詳である。父親は白人だが、誰なのか不明で、生れたときは母親の苗字をとって、Frederick Augustus Washington Bailey(フレデリック・オーガスタス・ワシントン・ベイリー)と名付けられた。母親はよそに売られ、フレデリックは祖父母と従姉妹の許で育った。その母親も7歳のときに亡くなっている。8歳のときに、ボルティモアのAuld(オールド)家に召使いとして出された。12歳のときにオールド夫人から簡単な読み書きを習うが、当時黒人奴隷に教育を施すことは法律で禁止されていたため、オールド家の主人は夫人にフレデリックに読み書きを教えることを禁じた。しかし、このことはかえってフレデリックの学習意欲を高め、彼は学問こそが自由への道だと信じひそかに勉強を続けた。16歳のときに戻され、反抗心が強いとみなされたフレデリックは、奴隷を「叩き直す」ことで知られたEdward Covey(エドワード・コーベイ)の農場に出され、毎日のように鞭で打たれた。ついに我慢できなくなったフレデリックは、コーベイに対峙した。この日を境に鞭で打たれることはなくなったという。そしてコーベイから脱走を試みるが、失敗し、ボルティモアに連れ戻され、今度はそこで造船所で働いた。ボルティモアでは、自由の身分になった多くの黒人に出会ったが、その中には後に妻となるAnna Murray(アナ・マレー)も含まれていた。
しかし、チャンスは再び回ってきた。1838年9月3日、フレデリックは、知り合いの船乗りの協力を得て、船乗りの格好で汽車に乗り、さらに船を乗り継いでニューヨークに脱出した。自由な身分になったフレデリックにアナ・マレーも加わり、二人は結婚し、マサチューセッツ州のNew Bedford(ニュー・ベッドフォード)に移り住んだ。結婚を機に、フレデリックは、ダグラスを苗字として名乗るようになった。フレデリックは、イギリスの詩人Walter Scott(ウォルター・スコット)の詩The Lady of the Lakeの登場人物からとったものである。そこで黒人の教会に通い、反奴隷集会に顔を出すようになり、奴隷反対運動の急先鋒William Lloyd Garrison(ウィリアム・ロイド・ギャリソン)のThe Liberator(解放人)を購読するようになった。そのギャリソンが参加する集会に参加したところ、思いがけず自分の経験を話すように言われたのが、奴隷反対運動家としてのデビューであった。彼の雄弁は多くの人々を感化し、あちこちで出席依頼がかかるようになった。1843年には、ボストンのAnti-Slavery Society(反奴隷協会)からの依頼でニューイングランドを講演して回った。1845年には、自叙伝のNarrative of the Life of Frederick Douglass, an American Slave(フレデリック・ダグラス自叙伝:アメリカの奴隷)を著し、大きな反響を呼んだ。有名になると、今度は逃亡奴隷を捕まえて元の所有者に返すことで賞金稼ぎをしていた人々がダグラスを狙うようになった。このため、ダグラスは一時ヨーロッパに逃亡した。このときイギリス人の友人が彼の自由を買い取ってくれたため、晴れて自由の身となることができ、1847年に帰国した。帰国後、ニューヨーク州のロチェスターに身を置いて奴隷制度廃止を訴える新聞を発行するとともに、活動の範囲を広げ、女性参政権問題についても積極的な支持を訴えた。1848年にはニューヨーク州のセネカで行われた女性の権利向上を訴える大会にも参加し、女性の人権を謳う感情宣言に署名している。この間に知り合った反奴隷運動家の中にJohn Brown(ジョン・ブラウン)がいた。1859年に、彼は決行の2ヶ月前に連邦武器庫奪取計画をダグラスに打ち明けて協力を求めたが、ダグラスは却ってアメリカ国民の感情を悪化させるとして断った。しかし、ブラウンの計画が失敗に終わると、ダグラスは共犯者として疑われることを恐れて、一時カナダやイギリスに身を寄せた。南北戦争が始まると、ダグラスはこの戦争は奴隷制度の廃止のために行われるものだと呼びかけた。1863年に奴隷解放宣言が出されると、黒人に兵士に志願するよう呼びかけるとともに、リンカーン大統領と会い、黒人兵の地位の向上を訴えた。彼の息子2人も有名なマサチューセッツ第54連隊に所属し、南北戦争に参加した。
ダグラスは、南北戦争後は、黒人の参政権を求めて新たに運動を展開した。南部に対する穏健的な政策を信奉するジョンソン大統領を厳しく非難し、1868年の選挙ではグラントを推し、人種による投票権の差別を禁止した憲法修正第15条項の採択に力を尽くした。この憲法修正条項は、性別による投票権の差別を禁止するものではなかったため、黒人参政権運動はこの時点で女性参政権運動と袂を分かつこととなってしまった。ダグラスは、1872年にロチェスターの自宅が火事で消失してしまったの機に、ワシントンに移住した。1874年には、解放された元奴隷の黒人のための金融機関として設立されたFreedman's Savings Bank(フリードマン貯蓄銀行)の頭取に任命されるが、前任までの放漫経営が祟り、幕を閉じる役割となった。その後、再び講演活動に戻り、1875年には公共の場所での差別を禁止する公民権法の成立を見届けた。1877年にはRutherford B. Hayes(ラザフォード・B・ヘイズ)大統領によってDC担当の連邦裁判所執行官に選ばれたが、ヘイズは南部からの連邦兵の撤退を実行し、事実上南部での人種差別撤廃の実行手段を無くしてしまった大統領であったため、そのヘイズから名誉職の任命を受けたことを多くの黒人から批判された。また、同年には、Anacostia(アナコスティア)川の近くの白人以外お断りの土地に邸宅を購入し、Cedar Hill(シーダー・ヒル)と名付けた。ここがダグラスの終生の家となった。彼はSage of Anacostia(アナコスティアの賢人)と呼ばれるようになった。
1880年にDCの登記管理所長に選ばれるが、1882年には長年連れ添ったアナを亡くしてしまう。しかし、2年後の1884年に彼の秘書であったHelen Pitts(ヘレン・ピッツ)と再婚し、世間を驚かせた。それはピッツが白人であり、当時人種を超えた結婚は許されざるものと考えられていたためである。ダグラスは、最初の結婚は母親の人種に敬意を払い、2回目の結婚は父親の人種に敬意を払っただけだと言った。1889年から1891年まではハイチ総領事を務めた。1895年にダグラスは、シーダー・ヒルで亡くなった。ヘレン・ピッツは、このシーダー・ヒルをダグラスへの記念碑とするためにその保存に尽力した。シーダー・ヒルには、当時の上流階級の家具や調度品が並び、ダグラスの成功した地位を伺わせる。その中には、リンカーン夫人から送られたリンカーンが使用した杖も残されている。ダグラスは外の東屋で読書をするのが楽しみであったようだ。
当時白人以外お断りだった土地は、残念ながら現在ではすっかり異なり、ワシントンの犯罪多発地帯となっている。訪問するときには車で移動するなど十分な注意が必要だ。
(国立公園局のHP)
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