とりあえず書いてみようか : 今そこにある、シビリアンコントロールの危機について
ところで、一見今回のテーマと関係ないようだが、おととい久間氏の秘書給与疑惑がとりだたされていた。公設第2秘書が私設秘書時代に、給与を民間企業から肩代わりされていた疑惑である。
この問題のでどころについては、参院選前に内閣改造を加速させたいグループからのリークという説がでている。つまり、選挙の前に内閣改造をして、参議院選挙を少しでも有利にしたいためというわけである。それが事実なら私にとってこの問題はさほど心配ではない。心配なのは、発覚することになった本当の原因が、彼の発言・・・沖縄の基地問題やイラク戦争をめぐるアメリカ批判・・・にあった場合である。仮にこの発言がなかったなら、この問題が表に出ることはなかったとするなら、これはかなり憂慮すべき問題である。
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なぜ第十七改正は行われましたか?
なぜ、憂慮すべきことなのか。それは防衛省のつい最近の人事問題が関係している。メディアによると、今回の陸幕僚長と空幕長の人事は、制服組の強い意向が反映された結果のようだ。このことと、今の守屋事務次官が長期にわたり事務方のトップをつづけ、彼のみが地位がかわることなくその任期が5年目にはいる(5年の長期続投は異例)ことをあわせて考えなら、今何が防衛省でおきているか。
以前このブログにも書いたが、私は久間氏は事務方、石破氏は制服組に近い防衛族議員だと思っている。守屋氏についてはよく分からないが、もし彼が石波氏に近いならば、今回の人事劇の示すところは、防衛省内での事務方と制服組の相対的力関係 における、制服組の力をあらわしているといっていいであろう。この推測通りなら(そうあってほしくないが)ことはかなり深刻である。
シビリアンコントロールとは文民統制のことだが、これは民主的政治を基盤とした非軍人よる政治遂行者の軍のコントロールをさす。物理的に圧倒的な力を持つ軍という存在に対し、これを政治決定から排除することで民主的政治基盤を強め、それにより、さらには、世界の平和の安定をめざすものである。これは人類が歴史的経験則からあみだした叡智といっていい。
もちろん、いろいろシビリアンコントロールについては見解がある。しかし、少なくともシビリアンコントロールというものに、民主的要素が不可欠なのは絶対である。軍という組織は、もともとその本質において非� �主的な存在である。これは当然で、だからこそいざというとき軍は、軍事的任務をはたせる。
国連総会は、どのように投票?
このような軍の特性を考えるとき、その軍をコントロールする任務を担う、本来的にその存在が民主的基盤である政治家には、当然軍とシンパシーにおいて一定の距離を保ち、適切な緊張関を維持できる能力が必要とされる。これがなければ、シビリアンコントロールは有効に機能しない。軍と完全に一体化した意向をもつ政治家による文民統制、それは結局形式的なシビリアンコントロールにすぎないといえよう。
防衛問題とは、何もいざというとき戦争に勝つことだけがすべてではない。いかに戦争を回避するか、それをさける状況をいかに作り出すかが、もっとも重要な防衛問題である。形式上のシビリアンコントロールがすすみ、軍の制服組と世 襲andシュミレーション的ゲーム感覚大好きあるいはヒーロー感覚大好き政治家のタッグがすすむと、避けられたはずの戦争を起こしてしまう危険は間違いなく高まる。そのひとつの形が、イラク戦争である。
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ないウェストバージニア州ノウハウバージニア状態になりましたか?
最近、制服組のトップはとみに強気になっているといわれている。チェイニーが来日したとき、彼は制服組のトップと会談した。日本がブッシュ的アメリカに追従する限り、この先にあるものは、制服組が自らの親分は日本の政府ではなく、アメリカ国務省、国防総省だと考えだすことである。
その場合制服組と同じ意向の政治家は、形式的なシビリアンコントロールの形で、うまく制服組に利用される。また意向の異なる政治家は、アメリカの意向を彼らに印籠のようにちらつかされる。そして、ますます彼らはシビリアンコントロール(民主的要素)を軽く見だすことになる。「政治は俺たちの意向を軽く見るな。俺たちは、世界に冠たるアメリカの国防とつながってるんだ。だから何も知らない日本の政治家は俺たちに口を出すな」と。そして、もし集団的自衛権が認められ、イラク戦争のときのようになれば、日本の自衛隊は海外で大いに活躍することになるだろう。
その最初の相手は、軍事マニア政治家のいう中国よりも、イランである可能性のほうがはるかに高い。そこで隊員に死者をだしてしまうと、もう� ��れはとめられない。犠牲者の隊員の存在を世論の感情に訴えることで、自衛隊はいよいよ、形式はともかく実質的に(自衛隊シンパシーの政治家を表舞台で使うことで)政治の舞台で大きな力を行使することになる。その後は、軍の意向が政治の世界で跋扈する、窮屈な世の中が待っている。
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戦後長い間、日本の政治家は狸(久間氏はこれに近いと思う)が多かった。子供的単純発想ではなく、いい意味でのあいまいさも持ち合わせていた。岸、中曽根政治の時でさえ、戦争経験者の側近による抑止、あるいはまだ派閥政治がいい意味で戦争の抑止力として働いていたため、結果的にアメリカについていくように見えても、軍事的に全開レベルにはならなかった。それが長い間日本が戦争に巻き込まれなかった大きな要素であったことは間違いない。
しかし、戦争を知らない世代が増えるようになり、苦労知らずの世襲議員が増え、議院内閣なのに、まるで大統領の小泉内閣が登場し、これを起因として軍事マニアの単純思考の議員が、あさっての方向で国際社会を声高に叫びだした。それが政権の中枢に多くなってしまったときから、この国は大きな危険への一歩をふみだした。有事法制ができ、さらには今また集団的自衛権をもとめて憲法改正を叫びだしている。もちろん今の防衛省の制服組は、集団的自衛権はすでにあるものとして、速度をあげてとっくに進みだしている。でもそれに今、ブレーキをかける政治家が、政治の中枢にほとんどいない。
この先、日本のシビリアンコントロールを維持していくためには、メディアの役割は重要である。民主的要素が軍からは� ��れてしまえば、もはや政治は終わりである。この意識をメディアが持つことが最も大事である。もちろんさしあたっては、シビリアンコントロールの問題も含む今の政治の流れを少しでも防ぐために、どうしても 今年の参議院選挙で安倍政権を惨敗させ、次回衆議院選挙で軍事マニア的世襲議員を落選させることが必要である。
もう少しいい意味での狸政治家が、政権の中枢である程度の数を占めないと、この国は本当に危ない。狸政治家が希少価値となりつつあるいま、その保護に努め、数を増やしていく必要があると思う。狸政治家でないと、なかなかアメリカや制服組組ともわたりあえない。ただただのまれていくだけである。単純思考の政治家が多すぎる今こそ、狸政治家の存在を見直す時期であると思う。
by phtk7161 | 2007-03-07 08:53
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